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「遊び」から見る人間の本質(西村清和さんをお迎えして)

 2017.6.21(B1事務局 サポートスタッフ 石原)

6月16日(金)、サーチプロジェクトvol.6の関連企画として、ラボカフェスペシャルfeaturingサーチプロジェクト「『遊び』から見る人間の本質」を開催しました。

ゲストには、西村清和さん(美学者/國學院大學文学部哲学科 教授、東京大学名誉教授)をお迎えし、「遊び」とは何なのか、その感覚の中身や構造がどうなっているのかについてお話をうかがいました。6月16日(金)「『遊び』から見る人間の本質」ゲスト:西村清和さん

〜「遊び」〜

まず、西村さんが話してくださったのは、ホイジンガやカイヨワをはじめとする、これまでの遊び論の議論で展開されてきた、遊びに関する二つの側面の紹介と、それらについての見解です。 一つは「非現実の虚構」、もう一つが「現実の模型」です。

たとえば、鬼ごっこやままごとのとき、わたしたちは現実とは異なる非現実の役割を演じ、虚構の世界を作り出しています。これは、非日常を出現させており、一つ目の側面に該当します。しかしその一方で、遊びはなんらかのルールを持ち、私たちはそれに従って他者と関係を構築します。この点で実社会の模型であり、「遊び」は実人生への予行演習だというものです。

この遊び論について、西村さんは批判的な見解を示されました。遊びは「遊んでいるという現実」であるし、遊びは教育学者がよく言うように現実の人生の「模型」による学習のためにあるのではない。また、株の取引が賭の遊びに見えたり、戦争がシューティングゲームに見えたりしても、それらはまったく異なったものだ。というのが西村さんの主張です。

哲学的な観点からみると、遊びと切り離して考えている社会的事象が「遊び」としての要素を持ちうる可能性があるのが興味深かったです。

6月16日(金)「『遊び』から見る人間の本質」ゲスト:西村清和さん

〜遊び感覚―浮遊と同調―〜
つぎにお話ししてくださったのは、「遊ぶ」という感覚の中身についてです。

西村さんは、突き詰めていくと「浮遊」と「同調」に行き着くといいます。
「浮遊」は、言い換えると、「かろやかで、あてどなく揺れ動く運動。それ自身の内部で、ゆきつもどりつする運動」といえます。 例えば、揺れ動きゆきつもどりつする典型的な仕掛け"シーソー"では、二人が異なった動きをしているように見えますが、二人は自分勝手な動きをしているのではなく、二人がひとつの動きに同調し、笑い合いながら浮遊する1つの感覚を共有しています。

この行動の関係は、まなざしのキャッチボール(まなざしの同調)であり、人々が"遊び"感覚があると言ってるのは、この浮遊と同調が起きている時といえるのでは、というのが西村さんの見解です。

6月16日(金)「『遊び』から見る人間の本質」ゲスト:西村清和さん  浮遊と同調

 重要なのは、この「浮遊」は必ずしも心地よいものばかりではないということです。ひとはジェットコースターのような危険が伴う状況にもお金を払って興じます。これはどういうことなのでしょうか?

これは不快の快と呼ばれ、古代ギリシアの時代から議論されてきたことですが、西村さんは、そもそもこれを「恐怖」と呼ぶこと自体が誤りであるとしています。なぜなら、ジェットコースターに乗っても、原則として死ぬことはないため、本当の意味で恐怖とは言えないからです。 むしろこれは恐怖を楽しんでいるわけではなく、「どうなるかわからないハラハラドキドキする状況」=「宙づり」を楽しんでいるにすぎないと考えると、筋が通ります。

このことから、「遊び」のなかには、「どうなるかわからない状況やスリルを楽しむ」感覚が本質的に内在していると西村さんは言います。

小さいころ、高いところにぶら下がったり飛び降りたりとわざと危険な遊びをした経験を思い出して、納得してしまいました。

  

〜遊びの基本骨格〜
トークの半ばになると、「遊び」と「仕事」の話になりました。

6月16日(金)「『遊び』から見る人間の本質」ゲスト:西村清和さん 

西村さんはこの二つは「遊び」と「企て」という、対立する二つの概念で説明できるといいます。

「遊び」は先の通り、「あてどない」、「浮遊」と「同調」「宙づり」の行動です。
「企て」とは「投企=目標や計画を立てて、それを達成する行動」だそうです。

まさにわれわれが仕事と呼んでいるものと言えます。「遊び」では自分と他人がおなじ動きに同調しますが、「企て」においては、むしろ各々の利害やまなざしは対立します。 

 おなじ「ふりをする」でも、こどものおままごとと、プロの俳優の演技が大きく異なるのがその例です。

一方は誰かに見せるという目的は持たずただ互いに同調し、その場でストーリーをつくり、父や母といった役割を模倣します。他方、俳優たちはひとつの作品を作り上げることを目標に技術を磨きスケジュールを組んで稽古をします。

西村さん曰く「よくアーティストは遊びの延長線上で仕事をしていると言うが、明確に作品をつくるという目標があることから、遊びというよりは企てという方が妥当である」そうです。なんだか意外ですよね。

6月16日(金)「『遊び』から見る人間の本質」ゲスト:西村清和さん  遊びの基本構造

〜自由がないから「遊び」は楽しい〜
後半の司会を交えたトークセッションでは、スマホが普及し、いつでも連絡ができてしまうため、遊びと仕事を時間によって分けることができない状況について意見が交わされました。

 西村さんはこの状況のしんどさは、「自由のない遊び」が確保できないことに由来すると言います。普通に考えれば、遊びは自由で、仕事は自由がないように思えますが、そうではないそうです。

遊びにはごっこ遊びにしろボードゲームにしろ必ずルールがあり、プレーヤーはそれに従わねばなりません。しかし、それは裏を返せば「鬼から逃げろ」、「キングを取って勝て」という行動の動機を与えてもらえるということでもあります。
すべて自分で選択・決定せねばならない普段の生活は自由であり、自由であるがゆえに辛さが生じます。
遊びが楽しいのは、そういった自由がないから、という発想には目からうろこで、会場でもうなずくお客さんが見られました。

 

〜最後に〜

最後に西村さんは、「我々の人生には食べたり飲んだり仕事をしたりすることと並んで、絵を見たり音楽を聞いたり演劇を見たり、と遊ぶことが不可欠」「それが欠けるということは、自分の人生が壊れるということを意味し、遊べないことは、人生の病理として不幸である」とまとめられました。

今回のトークでは、わたしたちは知らず知らずのうちにいろいろな行動様式を取っており、それは生きることに直結するふるまいであることをわずかではありますが理解できた気がします。様々な示唆を得られた二時間でした。

講演後の質疑でも、「夜中でも仕事の内容がきて企てと遊びの境がなくなっている。そんな状況を遊びにかえるのはどうしたらよいか」との質問への、「スマートフォンは持たないこと。」というストレートなコメントに会場が沸く等、終始和やかな雰囲気で終演したトークライブとなりました。

6月16日(金)「『遊び』から見る人間の本質」ゲスト:西村清和さん

 

 

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